誰かが話す「事実」の話を聞いているとき、その人がちゃんと考えてその話をしているのか、それともただ頭に浮かんだ言葉を拾いながら話しているのかって、けっこうすぐにわかります。
学生の「ぼうけんの書」を見せてもらっていても、もしくは彼らと話をしていても、「こやつ、事実を軽んじておるな?」と感じることがちょいちょいあります。
それは「ぼうけんの書」に事実をあんまり書いていなかったりするわけで、明らかに事実が整理されないまま話していたりするわけで、「それ、いったんちゃんと考えてから話してちょ」と。

実は案外、多くの人が「事実」を軽んじているんじゃないかと。
事実なんて、書かなくても、整理しなくても話せると思ってるんじゃないかと。
そういう人が多いように感じてるんですが、

「事実の話し方」に、その人の思考量が表れる。

と、ぼくは思っています。
学生の「ぼうけんの書」を読んでいても、事実を書いている人はそんなに多くなくて、それってたぶん「事実はいつでも思い出せる」と思ってるんじゃないかな、と。

いやいや、事実を「ちょうど良く」話せる人って、けっこういないものです。
ってか、事実を話そうとすると「時系列のまま」で話しがちな人が多い気がします。

どういうことかというと、たとえば幼稚園児に「今日は何があったの?」と聞いたら、「ええとね、きょうはね、ちえこちゃんとブランコにのってたらね、すごくたのしかったんだけどね、せんせいがきてね、お部屋にかえろうっていったの。ぼくはもっとちえこちゃんとお話したかったんだけどね、せんせいが言ったからお部屋にもどったの」と。
こうやって、そのときの事実を、時系列に沿って話すんですね、彼らは(たぶん)。

ただ、この報告において重要こと、及び何を伝えたいかというと、
「ちえこちゃんともっと話したかったのに、先生が邪魔しやがったんですわ」
という話なわけです。

なので、そこに必要な「事実」は、「楽しくブランコで遊んでたところに、先生が邪魔しにきやがった」というだけでいいんです。他に何かの事実を加えるとしたら、「お部屋に帰ろう」と言い出しやがったんですわ、ということだけなんですね。

他にもたとえば、道案内にもそういうのがありそうです。
誰かに道を聞かれて、自分は現在地からそこまでの道順を知っている。
そんなときに事実をちゃんと整理できていないと、現在地から目的地までの道順をぜんぶ話しちゃう。ここから何メートル歩いて、どんな目印があって、それをどっちに曲がると三叉路がある中の真ん中の道を入ったところで、その4軒目の家がこんな家だからそれを左に入って、数メートル、みたいに。

それらの事実・情報に優先順位がないから、順を追って全部を伝えようとしちゃう。

それって、「自分は全部見えててわかってる」と思っているから、わざわざ書いて整理をする必要がないという状態。
でもそこには、確実に必要な情報と、別に要らない(相手には必要がない)情報があります。

だから、そういう「膨大な事実」の中から、相手が理解するために、自分が伝えたいことを伝えるために、必要な情報「だけ」をピックアップできるかどうか。そこにその人の思考量が表れる、というわけですね。
就活でも、面接や書類で、不必要な事実を盛り込んじゃっているのをたくさん見ます。サークルの概要、組織の仕組み、自分が行動したときの状況……、その多くが「自分」を伝える上では、それほど重要じゃない情報でありながら、伝えたいことと伝えるべき情報がごっちゃになっちゃっているから、整理して伝えられていない。

それを解決するスキルって、やっぱり日々の練習であり、癖であり、習慣です。

自分が伝えたいことがある。
それを補足、証明するための事実がある。
そのバランスを適切に配分するには、それなりのスキルが必要。

だからこそ、ここでもやっぱり「ノートに書く」のが、一番手っ取り早い練習法。
何かを伝えようとするときに、いったん自分が話そうとしている事実を書き出してみる。
その中で、「伝えたいこと」を伝える上で必要な情報の優先順位をつけてみる。
どのラインを超えれば、十分に伝わる可能性が高まるのか、どの情報がなければわかりくくなるのか。それって、一度ぜんぶを見える状態にして、考えながら取捨選択をしてみる。その繰り返しの中で、勘どころというか、事実の拾い方が身についていくものです。

だから、「ぼうけんの書」にはちゃんと事実を書くこと。
事実の伝え方の練習をすること。
「頭の中にあるから、いつでもちゃんと伝えられる」ってのは、けっこうな確率で思い込みです。ぜひぜひ、ちゃんと事実も「ぼうけんの書」に書いて、整理してみてください。

そうすることで、JKKの黄金比であるところの「事実は3割」が上手にできるようになるはずです。
的確にちょうどよく、事実を伝えられる人が増えますよ~に!!