ここ最近、個人的にテーマとしている考え方があって、それは自分の言動に対してもそうだし、人や行動の評価軸(といったら大げさだけど)としても、「これやな」って考えていることがあります。

んで、ゆ~たら「日本人の道徳はこれでいいんじゃね~の?」くらいまでに思っているので、ちょっと書いてみますね。

というのも、ここ数年でどんどん人が人に不寛容になり、ちょっとしたミスや失敗の揚げ足とりばっかりして、後先を考えてないような人ほどボンボン子どもを産み、そうじゃない人ほど結婚や出産に消極的になる。日本そのものだって財政的にも政治的にも20年後30年後に「幸福な社会」が実現できるようには思えない。

ってのも、そもそも楽しそうに生きてる人が見えにくくないっすか?
ってか、格好良い大人がいないから、モデルが見つけにくくない?
なんてことを感じていたわけです。

「あんな大人になりたいなぁ」とか、紅の豚で言うところの「かっこいいとは、こういうことさ」的なものを提示、体現してくれる大人がいない。見えない。
その本質が何か、何を目指せば、何を基準とすれば、そんな「かっこいい」になれるのか、がわからない。そんな状態に陥ってるのが、いまの日本を覆う閉塞感の原因なのではないか、と。そう考えるわけです、ぼくは。

誰もが倣うべき指標が、いまの時代に見つからない。
お金を儲ける人生が正しいわけじゃない。異性からのモテを目指すことが誰にとっても楽しいわけでもない。バリバリモーレツに働くことが充実なわけでもなく、ただただ家庭をもって子育てをすることですら、必ずしもすべての人にとっての幸せの形なわけでもない。

んで、ここ数ヶ月というかここ2,3年、そんなことをぼんやりとテーマとして考えてきた結果、やっと見つかりました。
これです。

粋と野暮。

なんとなくぼくらの周囲に漂ってる閉塞感の元凶、ポジティブを殺しネガティブを増長しているパワーの源泉。それらはすべて「野暮」に集約されるのでないか、と考えるに至ったわけです。

人の痴情を追いかける人、それに群がる野次馬さん。
ネットで人の悪口を投げる人、すぐに噛み付く人。
自分のことばかり考えて、人に想いを致せない人。
自分たちで選んだはずの一国の首相に、「死ね」とか「許さない」とか言う人たち。

それらってルールや法やマナーじゃなくて、ただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただただ、野暮なんです。
「野暮」な話、「野暮」な人が増えてるということだと思うんです。

一方、そんな野暮の対義語となるのが「粋」。
それこそ「粋っていうのは」なんて説明するのが野暮な話だけれど、海外の言葉で「粋」に該当する言葉ってありません。「シック(Chic)」も違うし「スタイリッシュ(Stylish)」でもない。じゃあ「スマート(Smart)」かといったらそれも違う。「エスプリ(Esprit)」は近いようにも思えるけれど、やっぱり精神的文化的背景にズレがあります。

そんな日本独自の美意識が、「粋」。
それがいまや、まわりを見渡しても「粋なはからい」や「粋な振る舞い」、「小粋なしぐさ」なんて絶滅せんばかり。でありながらも、日本人ならどこかに共通した「粋」の感覚があるんです。

和の美、和の意気、和の心。


んで、そういうのって、法律やルールでどうこうするようなものじゃない。
本来、日本にはそういう概念や価値観があったのに、それがどんどん喪われてく。
「小粋なおっさん」は見なくなったし、「そんな野暮はやめときな」なんてフィクションの世界ですら言わなくなってる。
せっかくそんな素敵な美意識を、しっかり受け継いでいけたら、不寛容で不機嫌な世間も変わるんじゃないか。というかむしろ、そのへんが最後の砦なんじゃないかとさえ思うわけです。
だって、「野暮と粋」って年代世代だとか頭が良いとかそうじゃないとか、男だとか女性だとかにかかわらず、老若男女に共通した感覚です。曖昧でありながら本質的。

野暮な物言い、粋な物言い。
野暮な振る舞い、粋な振る舞い。
粋な社会人、野暮な社会人。
粋な生き方、野暮な生き方。

これからの道徳的価値基準、なんてことを言ってしまったらそれこそ粋じゃあないけれど、もっともっと「粋と野暮」、広まっていったらなぁ。
いつも「粋」なのはなかなかむずかしいけれど、いつも「野暮」をしないように意識することはできるはず。
「ほらほら野暮はよしなって」、「なかなか粋なことするねぇ」、「そんな野暮なこと言ってないでさ」、「そりゃあ粋だよね」って、なんだか心地よくないですか。

今日からみんなで使ってみよう。
世の中に粋な人や行為が増えて、野暮が絶滅しますよ~に!!