塾を経営する知り合いが、親御さんから「Googleでなんでも調べられる時代に、どうしたら子どもに勉強の必要性を伝えられるでしょうか?」と聞かれたらしいので、ぼくが考える「勉強する意味」について書いてみようかと思います。
端的に言ってしまえば、
「考える武器を増やすため」
なんじゃないかと思っています。
それこそ「Googleでなんでも調べられる時代」だからこそ、ネットに騙されず、ネット情報をちゃんと上手に使えるようになるには、そもそも「考える」ことが大事で、それならやっぱり勉強しておいたほうがいい。
逆に言えば、自分で「考える」ことができないと、どんなにお勉強をして頭が良いと言われるようになったとしても、いろんなところで損することになったりする。
「頭が良い」人は、お勉強ができなかろうが学歴が低かろうが、みんな「考えている」。
一方で、どんなにお勉強ができても、「考えてない」人たちは、ぜんぜん大したことない。
だからもうちょっと雑に、個人的な感覚も含めて言うなら、「他で“考える”という作業の習慣があるなら、必ずしも学校の勉強はしなくてもいいかも。ただ、もしそういう“考える習慣”がないなら、とりあえず学校の勉強で練習してみたらどうかな。教えてくれる人もたくさんいるわけだし」です。
大事なのは「考える力」をつけること。
「考える習慣」を身につけること。
他のところでそういう練習をしないなら、学校の勉強は悪くない教材だし、これから社会に出ていったあとにも役立つ材料がそれなりに詰まってます。
そういう「考える」ための武器を増やすのが、学校のお勉強。
国語は、自分とは違う人の感情を知り、知らない世界を見せてくれる。そんな自分とは違う人や世界を知れる上に、何より「考える」際にいちばん大事な言葉の使い方を教えてくれます。
算数や数学は、数字や公式なんて本質的な部分じゃありません。
数学の有用性って、論理的に考える方法の勉強であることです。事象や状態を踏まえて、どんな論理で分解したり検証したり証明したりしていくか。解を出すための道筋の立て方、仮定や要素の組み立て方を勉強できるのが、数学という科目なんです。
理科は、世の中を科学的に理解するための情報・方法の勉強です。
それこそネットには、非科学・エセ科学・妄信的感情による情報があふれています。健康・医療、お金儲けや化粧なんかの情報だって、ちょっとした「科学」の知識があれば、ダマされることは少なくなる。もっと言えば、料理や掃除も、恋愛や人間関係だって、科学的に考えられるかどうかで成果が大きく変わります。
社会は、国語と同じように他の人たちの考え方を教えてくれます。
ゆ~ても歴史だって、結局は人の思考や感情の記録です。どんな環境のときに、どんな考え方をする人が、どんな行動をするのか。古今東西の自分とは違う人たちのことを知れるのが、社会の勉強。
そして英語は、違う世界とつながるツールです。
「考える」ための材料集め、「考える」ための違う価値観を知る、「考えた」ことをより多くの人に発信する。そのためのツールのひとつ。
とはいえ、ぼくは英語は「まあ、やっといたほうがいいよね」くらいに思っている部分もあります。もちろんできるにこしたことはないし、できたらいいことは増える。だから得意ならやればいいけれど、個人的には、他の教科よりも優先度は高くなくていい。というか、他の教科のほうが「考える力」を磨くには重要度が高いと考えています。
そうやって、学校の科目はどれも「考える」ときの武器を増やすための勉強です。
自分とは違う人や考え方、世の中の思考や感情がわからないと、自分勝手で独りよがりの言動をしちゃうかもしれない。
言葉が上手に使えないと、自分が感じたことや考えたことを相手に伝えられないし、悩みや苦労も多くなります。しかも、それが論理的じゃなかったり、基本的な世の中や自然の仕組みがわかっていないと、考えるための時間も労力もかかります。
そうやって考えたことを、より多くの人とやりとりするのが、英語というツールです。
ただただ、テストで点数をとるためじゃなくて、あくまでも自分の頭で「考える」上で必要なことが、学校の勉強には詰まっています。
ネットで何でも調べられるようになろうが、どんなに教育制度が変わろうが、「考える」ことの大切さは変わりません。
ちゃんと自分で考えられるようになるためには、学校のお勉強もけっこう役に立つもんだよ? と、ぼくは考えています。
なので、やっぱり前半に書いたように、「考える」習慣があるなら、必ずしも学校の勉強はしなくてもいいと思います。ただ、もしそういう“考える習慣”がないなら、とりあえず学校の勉強で練習してみたらどうかな、がぼくなりの結論です~。
ということで、学校の勉強も楽しく、気持ち良く、適当に~。
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