学生のときは、よく「言い合い」をしていたなぁ。
ということを、ふと思い出しました。
ゼミやサークルの会議といった場だけじゃなくて、友だち数人と飲みに行ったら、何かしら言い合いをしてた。経済学部だったので日本の政策をどうすべきだとか、少子化はどうすれば解決できるかという話もしたし、トイレでうんちをしたときは前から拭くか後ろからか、それとも横からの可能性もあるんじゃないかなんて話題でも言い合ったし、相手の改善したほうがいい部分についてや、世界のロックバンドTOP3を決めようなんつって、あれやこれやと言い合ってた大学時代。
そんな「言い合い」をするのって、すごく大事だな、と改めて。
「相手のことがわかる」
「自分のことをわかってくれる」
会話が楽しい理由がそういうところにあるとしたら、「言い合い」をしてこそ、それは実現するはずで、テキトーに相槌をうって共感している雰囲気を保ったり、もしくは単に自分のしたい話をしたりしているだけだと、「わかる」は発生しにくい。
つまりは、「意見」のやりとりがあるかないか。
というところに、楽しい会話になるかどうかのヒントがあるんじゃないかな、と。
「この間、こんなことがあって~ん」
「いや、それはヒドいわ!」
とか、
「これ、むっちゃヤバない?」
「うわ、ホンマやん。むっちゃヤバいな!」
とか。
そういう会話は、そりゃ盛り上がるし、それが悪いといってるわけではないんです。
けれど、ぼくはやっぱり相手がどんな人なのか、どういうことを考える人なのかがわかるのが楽しいし、できれば自分のことをわかってくれるともっと楽しい。その上で、お互いの意見をやりとりして、新しい意見が生まれたりしたら、アタマの中で電球が光るくらいにうれしい。
んで、ただ事実や感情だけをやりとりしていると、そういう「わかる」楽しさは生まれてきにくいよなぁ、と。そこには、その人なりの「意見」があってこそ、楽しい会話になるんだと思うんです。
「事実と感情」だけでも、十分に「会話」は成り立ちます。
もしかしたら「意見」を言うのが恐いという感覚もあったりするのかもしれません。
ただ、過去の学生たちを見ていて、就活が順調に進んだ人や、今も若いうちに活躍して評価を得ている人たちのことを振り返ってみると、やっぱり確実に、学生時代から「意見」のやりとりをする会話をしていた人たちだなぁ、と気付きます。
自分のことって「言えば伝わる」というものでもないし、相手の話を聞いていればそれだけで相手のことがわかるわけでもない。それこそ先日の「3種類の聞く力」における「リスニング」だけじゃ、相手のことはわからない。
確認したり、質問したり、意見を伝えたりして、そのやりとりがあってこそ、会話はもっと楽しくなると思うんです。
んで、その根本において必要なのが、「相手を理解しよう/したい」というスタンスを、お互いにもつこと。それがなくちゃ、「意見のやりとり」としての会話は成り立たない。
逆に、お互いが「相手を理解しよう/したい」というスタンスさえあれば、ちょっとくらい激しめの「言い合い」になったって、怖がる必要もなくて。それこそぼくが大学生だったときの「言い合い」って、見る人が見たら「そんなにケンカしないで……」というくらいにヒートアップすることもありました。でも、当人たちはただただ楽しんでる。
そこには安易な共感も、勝手な自分語りもなくて、みんながそれぞれ「意見」を言い合ってました。
大小にかかわらず、「意見」を持つって超大事。それを発する。
大小にかかわらず、「意見」を持つって超大事。それを発する。
猿基地でもそんな会話が増えていったらうれしいし(ヒートアップまではしすぎないほうが良さそうだけれど)、それを楽しんでくれるお客さんが増えてくれたらうれしいわけです。ぼくもいろんな人たちの「意見」を知りたい。話題なんてなんでも良くて、ただただ楽しい会話をしていきたいなぁ、なんてことを思うわけです。
さてさて今日も、楽しく、気持ち良く、適当に~♪
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