誰が言っていたのかは忘れちゃったんだけれど、ぼくの好きな話に、ある人が哲学者(だか思想家だか)に、「これはとても良い本ですよ」ってのを渡して、一週間くらいしてから「どうでした?」って尋ねてみたら、その哲学者のおじさんは「まだ一週間だから、どうとも言えない」と。本そのものは、その日に読み終わってる。でも、だからといってそれで感想を、自分の所見を言えるようになるには、一週間じゃ足りない、と、そういう話。これに高校生のぼくはヤラれたわけです。

内容を、自分の中で吟味する。
じっくり咀嚼して、消化する。
あっちかな? こっちもあるよね? でも、この視点で考えたらさ? いやいや、でもこういう立場もあるじゃん? そうは言いましてもダンナ、こんなんはどうです? ゆ~てもアンタ、こういう立場もあるでしょう? なんて、脳内の舞台にいろんな役者を立たせて光を当てる。
その繰り返しの中で話が展開して、新しい道が拓けたり、最初は主役だった人が落ちぶれていったり、逆に舞台袖に隠れていた役者が見つかったりする。あいつが犯人だ!と思ってたら、実はどんでん返しで隣の奥さんが犯人で「まさかあの人が…」なんてこともあったりするわけです。

それこそ本にかぎった話ではありません。
映画だってそう。料理だってそう。趣味だって、日々の出来事にだって、そういう側面があると思うんです。

そりゃもちろん、なんでもかんでも「むむむ…」なんて眉をひそめて考えればいいってわけじゃありません。でも、「そりゃヤバイね~」とかね。「なんか違うやろ~」とかね。ぼくもちょいちょい使っちゃうのだけれど、そればかりだと自分の畑は耕せない。一生懸命タネをまいてみても、ゴボウみたいな人参とか、ビー玉くらいのジャガイモしか収穫できなくなっちゃったり。

似たような話(なのか?)だけど、ぼくは高校生のときにタチの悪い生徒会長で、校則の髪型やら服装やらで「高校生らしい」なんて書いてあると、先生たちとのやりとりでは、「あなたたちにとっての“高校生らしさ”は、本来の社会的な意味での“高校生らしい”と一致してるのか?」なんて言ってたりして。ホントいま考えれば、友だちになりたくないような生徒会長だったわけです。
ただ一方で、そんなタチの悪いやりとりをするために、いっつも脳内には先生を住まわせて、ず~っとギロンしてました。相手は先生のこともあれば、憎いあンちくしょう的な人のこともあったりするのだけれど、もう延々とギロン。たぶんK-1ファイターとかの格闘家がやってるようなシミュレーション? みたいなものを、「こう来たら、こう」 「この展開になったら、こう」「あれれ? こう返されたら次の手がないぞ?」とか思いながら、脳内訓練。
内容や方向性はともあれ、高校生からのそういう脳内訓練によって、身に付けられたものは、けっこうに大きい気がします。

一週間とは言わないまでも、そういうことを繰り返していると、最初は「A」だと思っていたものが、いつの間にか「A’」になって、そこに「B」やら「C」まで加わった後に、結局「A」に戻る、なんてこともあったりします。
でも、それでいいんです。
「A」のままの「A」よりも、「B」やら「C」やらを通過した「A」のほうが、自分にとってはずっと意味のあるものになるし、何よりそのプロセスでいろんなことに気づくんです。

1日経って意見が変わっても、いいんです。
変わることにビビらず、今までの感情や考え方に縛られず、たまには飛躍してみたりしながら、自分の畑を耕していく。

ただただ大事なのは、少しずつ思考の深度か角度か光の当て方の数値を増やしていくこと。そういうことが人生を豊かにすると思ってます、ぼくは。