自分の「可処分時間」みたいなことを考えたときに、アウトプットとインプット、どっちに時間を割いているのかなぁ、と考えるのって、けっこう大事なことだと思ってるんです。
「可処分時間」っていうのは、寝ている時間や風呂やご飯の時間、まぁ移動時間は含めても含めなくてもいいんだけれど、「もう決まってること、やらなきゃいけないこと」みたいな時間以外の、ある程度自由に使えるまとまった時間、というようなイメージ。

ぼくの場合は、お店(のこと)をやっている時間が1日だいたい9時間くらい。睡眠時間は基本的に6時間。それに加えて、ご飯が15分、移動が往復20分、シャワーに15~20分使うとして、ざっくり1時間と考える。

ということは、ゆ~たらぼくの可処分時間は、24引く16で、8時間。
8時間って言ったら、普通の会社員の勤務時間と同じくらい。

この時間の中で、どれだけ「自分にとって意味のある時間」を過ごせるか、なんですよね。インターネットを使ったり、本を読んだり、ブログを書いたり考えごとをしたりしてる。


んで。
ぼくが個人的に大事にしなきゃ、と思っているのが、「アウトプット」と「インプット」のバランスなんです。

たとえば、ゲームをしたり映画を観たりっていうのは、どう考えても「インプット」の時間。むしろインプットというよりも、それはもう「消費者」の時間。誰かが作ったものを消費している時間なんですね。
ネットで情報収集をする場合は、もうちょっとインプット寄りの色が濃いと思うんだけれど、それが「インプット」としてカウントしていいかどうかってのは、そこで入手した情報なり何なりが、どれだけ「アウトプット」に影響を与えるかによって決まるんじゃないかと考えてみるわけです。

たとえば、どんなに「役に立ちそう」な情報を仕入れても、それが自分のやることの成果を高めたり労力を減らしたりしてくれないものだったら、そのインプットには実は大した意味はなくて、ただの消費とそんなに変わらない。持ってて「わ~い、うれしい」って。

学生と社会人の違いのひとつが、アウトプットをしているかどうかです。
乱暴に言ってしまえば、学生はアウトプットが求められることもないし、インプットさえしていれば(むしろただ消費しているだけであっても)、怒られることもないし、遊んでるだけで「楽しい学生生活」は送れちゃう。
一方で、社会人は、どんな大手企業でも人気職種でも、はたまた社会的に敬遠されがちなタクシードライバーや風俗で働く人であっても、必ず何かしらの「アウトプット」をしているわけです。誰かに何かを発信してる。そして、アウトプットが多ければ多い人ほど、「優秀な社会人」である可能性が高いはず。


そういう意味で、ぼくは自分の可処分時間において、アウトプットの時間が半分を超えていたいし、少なくとも3分の1はアウトプットしていないといけないよなぁ、なんてことを考えたりしています。最近ぜんぜんできていないんだけれど…。
もちろん店の営業はアウトプットではあるんだけれど、それはあくまでも普通に仕事ではあるので、不換算。それ以外の可処分時間でアウトプットの時間を増やしていくこと、その時間をチェックしておきたいんです。
そうした「アウトプット量・時間」の管理と並行して、消費的なインプットの削減も大事だなぁ、と。ちゃんとアウトプットにつながるインプットをすること。

どんなに何かを学んだって、「じゃあ、それがアウトプットにどんな影響があるのか」がなければ、ぜんぜん学びでもなんでもない。

学生だって、社会人にならないとアウトプットできないわけじゃない。どんなに小さくてもいいから、どんどんアウトプットをしていったらいいのにな、と思うんです。そしてインプットをするなら、「それがどんなアウトプットにつながるのか」を考えながらインプットをしていってみる。
それができたら、「就活!」なんてことを考えなくたって、いつの間にか社会人の基礎体力が身についてる。

ドラッカー先生も言っています。
「成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。」って。

頭の中に、ちょっと厳しい家庭教師を飼いましょう。
んで、ときどき話させるんです。

「キミキミ、いまは何してる時間かね?」って。

アウトプットの時間?
インプットの時間?
それとも、ただの消費時間?
それを意識するだけで、人生のアウトプットはもっと増えるはず。





ドラッカー先生の超名著!!
『ドラッカー名著集1 経営者の条件』